億万長者の言葉の使い方の秘密~意志の凝集力~

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昨年、億万長者の人と話す機会があった。

夜通し8時間話して、かなり個人的な話を聞いた。


30数歳の青年。


彼の成功の秘密はなんだったか。


「へ?」というようなことを超真剣にやっている。


彼がこれまで出会ってきた数百人の億万長者という成功者たちも
みんなこれをやっていると。


ものすごくシンプルなことだ。

イメージ。


彼はプロ級のビリヤードプレーヤーでもあるが、プロのビリヤードプレーヤーが、

どう頭を使うのかというと、最初の三角形の玉の群を崩した後、まず玉をどう落とすか、

すべてをイメージする。



「イメージによって、体が勝手に動く。イメージなしに何かをやるなんて、ありえない。」


ピッチャーが球を狙いどころに投げるときは、まず、どこに投げるのかをイメージする。


それについて、体が動く。


別の角度から述べてみたい。



私は専門の関係上、よく座禅をしたり気功をしたりするのだが、

そのため、イメージ(まぶたの裏に明晰に映る)、それ自体を見る機会が多く、

その際、イメージの操作をする練習をする。



たとえば、二人の格闘家が「見えた」としよう。

私は片方の格闘家を操作するため、相手に向かって、

上蹴りを放つ「結果」をイメージする。


A→→→→→→→→→→→→→→→→→B


A においては、格闘家二人が向き合っているイメー ジが映っており、

このA 地点で、私はB 地点の片方の格闘家が上蹴りを相手に向かって放っている

「結果」をイメージする。



それにより、

私の「イメージ「(意志といってもいいだろう)の「結果」に

あわせて格闘家は動き出し、時間は経過し、

B 地点で片方の格闘家は相手に上蹴りを放つという「結果」を出し、

私のA 地点でのイメージと一致する。



注目に値するのは、「→」の部分における、向き合っている体勢から、

上蹴りを放つまでの「過程」の動作については、私はイメージしておらず、

私以外の「何か」がそこを「埋めている」という事実だ。


だから、B地点で蹴りを放つという「結果」は一致しても、

「過程」の動作においては、私が予想もしなかった動作が生ずることがある。


イメージを操作する場合、私はイメージの「結果」を「意志する」だけでよく、

その「過程」は何か「(脳のどこか)」が処理してくれる。


「イメージなしで、何かをするなんて、ありえない。」


彼は10年後の目標も、短期目標も常に頭の中に描くようにしている。



彼が何をいっているのかというと、

「結果」をイメージ(意志)し続けることで、その「結果」に至るべき「過程」を、

「何か(脳のどこかだろう)」が意識に上らせてくる、ということだ。


思い描いた(意志した)「結果」を達成するための、

「ステップ(過程)」を意識に上らせてくるだろう、ということだ。


そして、肉体レベルでは、意識に上ってきた「過程」を、行動に移すことで、

「結果」に近づいている、ということになる。


実は、このことは全く逆のことにもいえることで、

「できない」という「結果」を頭の中でイメージ(意志)することで、

「できない」という「結果」に至るべき「過程」を、

「何か」が意識に上らせてくる、ということだ。


そして、その「過程」を行動に移すことで、

「できない」という「結果」を実現することになる、

その「できない」が、自分にとっていいことにしろ、悪いことにしろ。


恐ろしい事実だ。


ところで、何もかも「できる」と意志しても、脳が混乱するだけだ。

また、何もかも「できる」必要はサラサラない。


この情報過多の時代、積極的に「できない」とイメージすることも必要だろう。



イメージは自由だ。

そして、「慣性力」が働く。


蹴りを途中で止めようと思っても、すぐには止まらない。


長期目標にしろ短期目標にしろ、目標を達成するには、達成している「結果」を

思い描き続けることが必要だということになる。


「何か」、脳のどこかだろうが、脳というのはおそろしく偉大だと思う。


数直線に例えるなら、整数(…,-2,-1,0,1,2,…)が

「意志」にあたり、その整数の間に無数に並んでいる実数群。


そんなイメージだ。


「意志の凝集力は、意志した結果の数に反比例する。」


実数の視点からみると、整数は超超少数派なんだな。


それら、完全には認識しえない実数部分を統括管理しているのが、

脳という偉大さといえるだろうか。


人間は「整数」に当たる「意志」を使うことで、

「無限」にある実数を使いこなすことができる。


意志を自由に発揮できること。

これが人間の特徴だといえるだろう。


ただ、意志を発揮した際に世界は変化しているわけなのだが、

日常での「この意識の変化」は、座禅しているときなどのイメージそれ自体が

見えている特殊な意識状態と違って、曖昧で微妙なため、気づきにくい、

ということなんだ。


それで、「何も変化していない」と思い込んでしまうことが、

人の進歩を止める、第一の足かせとなっているということだ。


応用例

1、「翌日のことは、前の晩に書きつけ置かれ候」 (葉隠より)



2、「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた。

かなしく白いあかるい死の床で私の手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ。


トパアズいろの香気が立つ。


その数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にした。

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ。


わたしの手を握るあなたの力の健康さよ。


あなたの咽喉に嵐はあるが、かういふ命の瀬戸ぎはに、

智恵子はもとの智恵子となり生涯の愛を一瞬にかたむけた。


それからひと時、

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つしてあなたの機関ははそれなり止まつた。


写真の前に挿した桜の花かげにすずしく光つレモンを今日も置かう。」

(智恵子抄より)



3、引き寄せの法則。人は自身が望むものにしろ、望まないものにしろ、

自身でイメージしたものを自分のもとへと引き寄せる。

阿部拝
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