精神科医の友人に宛てた手紙~かめはめ波を放って自分が閉じこもっている殻を吹き飛ばす方法~

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初めてヒマラヤ山脈を目にした人は、よくそれを空だと「思い込み」、

山であると「認識」できないという現象がおきるのだという。


「思い込み」


この言葉に関連してよく言われることとしては、


「自分だけの世界に閉じこもる」

「自分の「殻」を作る」などなど。


みな、「その殻を破れ破れ」という。

他の世界も知りなさい、と。


では、その殻を破るとは具体的にどういった行為なのか、

それについて、通常とは異なる観点から述べてみたい。


この心の「殻」は、ある場所にいくことで、

「五感」を通してリアルに実感できることがある。


その「殻」を、「さわり」、「押し」、「凹ませ」、

「匂いをかぎ」、時には「かじったりする」ことができる。


それが、心が世界の現象として現れる夢という世界である。


私は専門の関係上、心の世界を調べるため、夢の中で夢だと認識し、

意識的に夢の世界を探索する技術を身に着けてきた。


基本的にその技術は、現実世界と夢の世界との相違点を見つけることで、

夢の世界にいるか否かを認識する、という考えが核となっている。


通常、夢の中で夢だと認識できない主な理由としては、

現実世界と夢の世界は酷似しており、また批判的分析的な心が劣勢になっている、

以上二点が挙げられる。


批判的分析的な心の力が劣勢に立たされるという場で、

現実世界との相違点を注意深く観察するという行動をとることは、

困難であると言わざるを得ない。


そこで、批判的分析的な心の力が落ちている場合でも、

現実世界と夢の世界とを明らか区別する標識を見つけることができれば、

「自分は現在、夢の世界にいる」ということを認識できるのではないか、

と私は考えた。


夢の中でおよそ70回におよぶ実験を繰り返して来た中で確かめたことだが、

私自身の経験として、現実世界と夢の世界の決定的な違いは、以下の点にあった。


現実世界の物質は硬い。

夢の世界の物質は柔らかい。


学校のコンクリートだろうと、木のドアだろうと、運動場の床だろうと、

それを「思い込みを抜きに」して押す限りで、ズブズブへこむ。


ドアを抜ける際、腕からズブズブ、そして顔が抜ける瞬間、

めがねがコツーんとドアにあたり、その圧迫感が鼻梁に伝わった。


まるで硬い水あめに手を突っ込んでいくかのような感覚。

こういった現象は現実世界では、まず「あり得ない」現象だ。


物理法則を無視した現象。


では、何故私は夢の世界で問題なく走ることができるのだろう?

そうしたぐにゃぐにゃの世界であれば、走ることも困難であろうに…


その理由を、私は「意識の力」が問題となっているからだと考えた。

その世界を何の疑いもなく、当たり前のこととして受け入れている限り、

その世界は自分自身にとって当たり前の姿を提示する。


私が夢の世界にいるのにもかかわらず、その世界を現実世界として何の疑いもなく

受け入れている限りで、夢の世界にあるはずの特徴「柔らかな」性質は失われ、

現実世界に酷似する非常に「硬い」世界へと姿を変えている。


夢の世界では、現実世界での習慣行動が現れることが多い。


観察した夢の世界の性質から、「目の前にある対象を押す」という行為を

現実世界で毎日定刻に行うという習慣をまずは身に着けた。


その習慣が、夢の世界で自然発生的に生まれ、世界が凹み、夢だと認識するという、

一連の思考プロセスを自動化したわけだ。


注目に値するのは、「押す」という行為の際に、

「思い込み」がぬきになっている状態でなければ、

たとえ夢の世界であったとしても凹まない、または凹みにくい、という現象が生ずる。


つまり、ある種の思い込みに気づかず、それに

いつの間にか囚(正に□の中に人の状態だ)われている限りで、

夢の世界の物質(心の素材?)に変化(凹まない)がおきないのだ。


以上のような観察から、現実世界のあらゆることに適用できるかもしれない

以下のような法則を発見した。



心の世界に変化を及ぼす際の法則。


1、思い込みを脱却した状態であること

2、その上で、目標対象との相互作用を生み出す行動を起こすこと。


1によって、「心の素材」の硬度は落ち、

2によって、「心の素材」により大きな変化を及ぼすことが可能になる。


そこに超かめはめ波をぶち込むのである.


阿部より

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